新たな概念の登場によるものの本質
の再定義こそが本質だ
メンチかつの日に店の常連さんと話したときのことだ。ものの本質
が新たな概念の登場により再定義されるという考え方に衝撃を受けた。
他から己を見出すことは本質と言えるのか?と思ったが、これこそが本質だ。
聖書で例えるなら、これは冒頭の数行で述べられる。
無
から
光あれ
を見る。
ここで言う
無
は、空間的な次元が0という意味でも、空間的な次元はあるが空であるという意味でもよいとする。
無
しかない状態はその状態しかないので、無は
全て
でもある。
しかし
光あれ
で光というものが登場すると、無は全てでなくなる。
聖書を読み進めると
闇
が登場する。
もし
無
を空間的な次元はあるが空であるという意味ならば、この無は闇と同じ意味になる。
この考えに至った理由はたまたま平和と戦争の関係を考えていたからだ。
争い事がない地域に限れば
平和=日常
であるが、この定義は世界的に合わない。
そもそも平和の概念は争い事の概念が出た途端に発生する。
皮肉なものだ…
とにかく、新たな概念の登場による
ものの本質
の再定義こそが本質である。
特にものを時空的な局所で見るか大局で見るかで本質の定義は顕著に異なる。
2018/07/21 20:52